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NEWS & DIARY Kamihaneda Cellar

2022.06.24

HEART LAND物語

Star Cafeの定番ビール
といえば
「HEART LAND」
僕自身、大好きなビール

ハートランドの背景の物語がStar Cafeのコンセプトに通ずるものと同じ
僕が思い大好きなパンクの精神!
今の時代に必要な精神と思います。

長文ですが、お時間のある方は、お付き合いください。

鮮やかな緑色の瓶で知られる個性派ビール「ハートランド」。

根強いファンの多いこの異端のビールは、実は当時のキリンの主力商品だった「ラガー」を潰すために開発されたという。開発チームを率いた天才マーケターは、なぜ自社の主力商品を潰そうとしたのか――。

【写真】亀田製菓の社外取締役に就任時の前田仁氏(2014年)。

※本稿は、永井隆『キリンを作った男』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■ラベルのないビール

今まさに、バブルの時代が幕を開けようとしていた1986年。その一風変わったビールは生まれた。

一風変わったビールとは「ハートランド」。目に鮮やかな緑色のボトルが印象的な、麦芽100%の瓶ビール(500ml)だ。「ハートランド」が、キリンビールの製品ということさえ、意外と知られていない。

ボトルにはラベルがなく、ガラスにエンボス(浮き彫り)が施されているだけ。「KIRIN(キリン)」のロゴすら入っていない。

このボトルのデザインは、ニューヨーク在住クリエーターのレイ吉村が手掛けたものだ。ニューヨークの沖合に沈む沈没船から発見された、古い瓶の形をイメージしたという。

エンボス部分に描かれた大樹のイラストは、画家ラジャー・ネルソンが描く、イリノイ州の穀倉地帯の風景がもとになっている。

「ハートランド」は、当時テレビ朝日系で放送されていた「愛川欽也の探検レストラン」という料理バラエティ番組向けに作られた。ちなみに、同番組のスポンサーはキリン1社だった。

番組向けのビールではあったが、テレビ朝日の旧局舎内のレストラン「たべたか楼」で、実際に飲むことができた。

「ハートランド」はその後、キリン直営店でも提供されることになる。その直営店とは、現在六本木ヒルズがある、当時は「再開発予定地」だった場所に86年10月にオープンした、「ビアホール・ハートランド」である。

そもそも「ハートランド」は、この「ビアホール・ハートランド」のために開発されたビールだった。テレビ番組での使用はPRのための施策に他ならない。

「ビアホール・ハートランド」もまた、普通のビアホールではなかった。

建物自体かなり個性的だった。かつてのニッカウヰスキーの原酒貯蔵庫跡で、通称「穴ぐら」(客席数54席)と呼ばれる建物と、大正初期にドイツ人が設計した蔦の絡まる4階建ての洋館「つた館」(同142席)からなっていた。フルオープンしたのは11月7日。

■自社の看板商品「ラガー」をたたき潰す

「ハートランド」プロジェクトを実質的に仕切ったのは、当時キリンのマーケティング部に在籍していた前田仁(1950~2020年)。前田は「ビアホール・ハートランド」の初代店長も務めている。

関西学院大学経済学部を卒業した73年に入社した前田は、大阪で業務、営業の仕事を経験したのち、80年にマーケティング部へ異動していた。本社にマーケティング部が発足したのと同時だった。

当時のキリンは、ビール業界において絶対的なNo.1企業だった。72年から、「ハートランド」発売前年の85年まで、キリンのシェアは連続して6割を超えていた。もっとも当時、キリンはこれ以上売り上げを伸ばせない状況にあった。独占禁止法に抵触し、会社が分割される可能性に直面していたのである。

ただ、「ハートランド」がキリンのロゴを外した理由は、「シェアの取り過ぎ問題」のためではなかった。

キリン関係者は次のように語る。

「ハートランドの本当の狙いは、主力商品のラガーをたたき潰すことにあったのです。社内でも数人しか知らない極秘作戦でした」

「ハートランド」の開発が始まった83年9月。

当時、キリンのマーケティング部長を務めていたのは桑原通徳(みちのり)。桑原は53年入社。大阪で営業畑を歩み、79年には神戸支店長を務め、83年4月に本社マーケティング部長に就任していた。

「桑原さんは前田さんの才能を見抜いていた。だから『責任は俺が取るから、好きなようにやっていい』と、前田さんにすべて任せていた。桑原さんがいたから、『ハートランド』のような攻めた企画が通ったんです」

そう語るのは真柳亮。79年入社の真柳は神戸支店に配属され、支店長の桑原の下で「伝説の営業マン」としての才能を開花させる。

■5つの時代原理

「ハートランド」開発プロジェクトを担当したのは、マーケティング部で課長だった上村修二と、新入社員の太田恵理子。のちに漫画家「しりあがり寿」として有名になる望月寿城、そして前田仁の2人が後から加わる。

84年夏、上村は太田にこう質問した。

「プロジェクトの進捗(しんちょく)が思わしくない。メンバーを追加したいが、誰がいいだろうか」

太田はすぐ、「前田さんがいいと思います」と答える。

太田は東京大学文学部社会心理学科を卒業し、83年にキリンに入社。すぐマーケティング部に配属されている。プロジェクト発足の頃、前田は清涼飲料を担当していた。その頃の前田について太田はこう証言する。

「前田さんはちょっとクセのある人でした。作る商品も変わったものばかり。大きな病気で休職したせいか、少し斜に構えたところがありました。一方、誰に対しても自分の意見を曲げない、芯の強い人だとも感じました」

プロジェクトチームに加入した前田は、さっそく「ハートランド」の商品コンセプトを作ってくる。

「素(そ・もと)=もの本来の価値の発見」

前田が鉛筆で手書きした紙には、そう書かれていた。この時、前田はコンセプトとともに、「これから時代は何を求め、どう動くか」を整理した、「5つの時代原理」も示している。

①個としての確立を目指す時代
②能動的な情報判断を目指す時代
③人間の感性を再開発する時代
④新しい本物が求められる時代
⑤Less is more(過剰装飾、過剰機能の商品より、無駄なものを取り去ったシンプル、ナチュラルが求められる)の時代。

この時、前田はすでに、「大量生産・大量消費の時代が終わり、心を動かす製品の時代へ移る」ことを、明確にとらえていた。

■「ハートランド」の裏コンセプト

「大量生産・大量消費」は当時の常識であり、「ラガー」はまさに象徴だった。しかし、前田のコンセプトはそれを真っ向から否定するものだった。だが、桑原は前田を強く支持する。こうして「ハートランド」は、「量より質を追及し、コアなファンに愛されるビール」として開発されることになった。

その方針は徹底していた。「ハートランド」の開発では、大学教授やアーティスト、編集者といった『時代を先取りする人々』だけにアンケート調査を行う。「ハートランド」は当初テレビCMを一切打たなかった。実は、「ハートランド」には、「お客様に見つけさせる商品」という「裏コンセプト」があった。

「ハートランド」は、量を売る商品でなかった。前田が考えていたのは、質で「ラガー」を上回ることだった。

そのため、「ハートランド」の販売戦略は、特定の人に深く刺さることを目指し、東京限定販売を前田は提案する。保守的な気風が強い地方では受けない、と判断する。

だが、時代を先取りし過ぎたせいか、「ハートランド」は会社の主流である営業部門の猛烈な反発を招き、東京限定販売の提案は却下されてしまう。

次善の策として前田が打ち出したのが、「ハートランドを直営店『ビアホール・ハートランド』だけで提供する」という戦略だった。

太田はこの間の事情を次のように語る。

「営業部の反対で、プロジェクトは八方塞がりに陥りました。その中でもなんとか代案を出し、プロジェクトを実現できたのは、前田さんのおかげでした。もともと芯の強い人でしたが、あれほどのパワーを発揮できる人とは、思っていませんでした。きっと、難しいプロジェクトを通じて、前田さん自身も成長していったんだろうと思います」

■時代を先取りした「ビアホール・ハートランド」

「ビアホール・ハートランド」は、画期的なお店だった。「キリン」の看板はなく、ぱっと見ただけでは、キリンの直営店舗とはわからなかった。来店客は、キリン直営店とは知らずに、ビールの素直な感想を語ってくれた。

そうして得られた貴重なインサイト(消費行動の確信となる心理)を、商品開発や改良に活用する。「ビアホール・ハートランド」の狙いはここにあった。また、時代を先取りする、最先端の文化拠点となった点も特徴だった。

2つの建物のうちの「つた館」では、音楽や舞踏、演劇などのライブイベントが開催されていた。「穴ぐら」でも、現代アートなどの展示が行われていた。当時のアーティストからは「ハートランド・ギャラリー」と呼ばれ、アーティストたちの交流の場となっていた。

望月寿城は次のように語る。

「ビアホールの候補地を探して、前田さんと一緒にあちこち歩きまわりました。横浜の赤レンガ倉庫にも行きました」

オープンから87年4月20日までの約半年間、前田は初代店長を務める。当時、原宿にあったキリン本社に朝9時に出社すると、通常の仕事をこなす。夕方か、時には昼前から六本木の「ビアホール・ハートランド」に移動し、スーツから店のユニフォームに着替えて、閉店まで店に立っていたという。

「前田さんは、どんなときでも飄々(ひょうひょう)としていました。ビアホール店長の経験などありません。それなのに、ライブハウスであり、美術館でもあるような運営の難しいお店を仕切っていたのです。しかも、前田さんは少しも不慣れなところを見せませんでした」。望月は当時の前田をそう語る。

■口コミ・マーケティングの6つの極意

前田を敬愛していた真柳は、「ビアホール・ハートランド」の開店初日に客として訪れた。真柳が当時交際していた婚約者(現在の夫人)と2人で食事をして、レジで会計をした。その時、前田はニタニタ笑いながら、こう言ったという。

「お客さんは君たち2人だけ。あと、僕が少し自腹で飲んだ分も入れて、しめて3800円。オープン初日の売り上げはそれだけだ」

それを聞いて、真柳はさすがに心配になったという。ただ前田はこう答えた。

「ハートランドはネットワークで売っていくつもりなんだ。だから、最初はお客さんが来なくても仕方がない。いずれは満員になる」

当時を振り返って真柳は語る。

「前田さんはうっすら笑みを浮かべていて、自信たっぷりに見えました。だから、そういうものかと安心したのを覚えています」

スマホはもちろんネットもパソコンも普及していない時代だ。ネットワークといっても人から人への口コミが中心だった。

前田は当時、どうすればメディアを使わない宣伝ができるかを研究していたという。

「ハートランド・プロジェクトをやっていた時、随分考えたことがあります。どうしたら口コミを起せるか。どうしたらペイドでないパブリシティーができるかを」(2003年4月8日作成の前田仁の講演録「思考の技術について」)

その結果、前田がたどり着いたのは、次の6つのポイントだった。

①一つの商品にたくさんの情報価値=語りたくなる、伝えたくなる価値を盛り込む
②発信しようとする情報を受け手の身になって考える、整理する
③時代を読む
④関与者を多く作る
⑤影響力のあるメディアほど情報感度は鈍い。雑誌→新聞→ラジオ・テレビの順番を意識する
⑥追い駆けるより追い駆けさせる構造を作る。

今でも最先端の手法に、前田は80年代半ばの時代から取り組んでいたのだ。

「ビアホール・ハートランド」は、やがて活況を呈する。ライブやアート目当ての客も増え、来店者数は右肩上がりに増えていった。「いずれお客さんが溢れる」という前田の予言は的中した。

「ハートランドの店長時代にも、店を閉めて、売り上げの100万円を超える現金を数え、六本木交差点の三菱銀行の夜間金庫に入れに行くという経験をしましたが、その時の緊張感は未だに忘れません」(「思考の技術について」)

「ビアホール・ハートランド」の大きな特徴として、期間限定の店舗だったこともあげられる。再開発予定地の古い建物を使っていたため、建設工事が始まると営業できない。そのため、当初より2年5カ月という期限つきでスタートしていた。期限は2回延長されたが、90年12月には閉店することになる。

閉店までの4年2カ月で「ビアホール・ハートランド」を訪れた総来場者数は、実に56万人にも及んだ。

■「36歳の時、サラリーマンは一番いい仕事をしなさい」

「マーケティングの天才」と称されていく前田は、のちに次のように振り返っている。

「お客様は、予定調和的なものには魅力を感じませんが、あまり先を行き過ぎた物もダメです。手の届く幸せではありませんが、手の届く満足、手の届く憧れ、これがよく言われる『等身大の半歩先』です。しかし、半歩先も、『大衆と先端』の両方が分からないと落とし処がわかりません。何時も先端に接していることが必要ですし、極端に言うと、先端の実感を掴む為には、あえて先端を商品化しないとわからないとも言えます。匙(さじ)加減を掴むと一口に言っても悩ましいところです」(「思考の技術について」)

「成功体験が大きければ大きいほど、忘れられない記憶として我々の中に刷り込まれます。周囲の環境が変わっていても、どうしてもその体験を捨てきれないのです。そして、大きな失敗を犯してしまいます。成功体験と同様に、我々は多くの既成概念にも取り巻かれて生活しています。その既成概念も、所与の条件のように我々の思考と行動を支配します。それから抜け出す為にはどうしたらよいか。何時も自分の思考を真っさらにしておくことが必要です」(「思考の技術について」)

「自分の思考を真っさらにする」ため、前田は幅広く様々な人々と交流していた。舞踏家の田中泯のようなアーティストの他、広告代理店、広告クリエーター、建築デザイナー、リサーチ会社の関係者など、実務家の人脈も広い。

「36歳の時、サラリーマンは一番いい仕事をしなさい」

前田はのちに、自分の部下たちにこう話していた。前田が「ハートランド」を作ったのは、36歳の時だった。それほど前田は「ハートランド」に思い入れがあった。

「個人的なことになりますが、私に『何が貴方の今までの仕事のなかで印象的か、何が自分のバネになっているか』と問われれば、迷うことなく『ハートランド・プロジェクト』と答えます。私の思考・行動・ネットワークの全てを支配していると言っても過言ではありません」(「思考の技術について」)

80年代にキリンが商品化した中で、いまでも販売されているビールは「ハートランド」だけだ。

「ハートランドと(90年発売でやはり前田が作った)一番搾りは、コインの裏表。ハートランドがインディーズなら一番搾りがメジャーレーベルです」

そう語るのは現在キリンビール企画部部長を務める山田精二だ。89年入社の山田は、いまもなお、前田を「師」と仰いでいる。

「ハートランド」の目的は、看板商品「ラガー」に安住し、変化を拒むキリンを変えることだった。

■「あえてダサく作れ」の真意

ところが、その狙いとは逆の動きが起こる。

それは「ハートランド」を缶ビールにして全国発売する、という動きだった。

「ハートランド」は「ラガー」に対抗する商品として、コアなファンだけに届ける「とがったビール」のはず。それを缶ビール化して全国で販売するのは、ブランド価値をみずから毀損(きそん)する行為に他ならなかった。

大量生産・大量消費の商品にすれば、「ラガー」と同じ土俵で闘うことになる。それでは「ラガー」に勝てるはずがない。「ハートランド」は「ラガー」の引き立て役に甘んじることになる。

しかし、「ハートランド」缶の全国発売は決まってしまう。全国発売を決めたのは、絶大な力を持つ営業部だった。「ビアホール・ハートランド」が成功している以上、缶入り「ハートランド」も売れるだろうと考えたのである。前田の仕事がうまくいった結果、狙いと真逆の結果を招いたのは、皮肉という他なかった。

前田にとって、一番思い入れのある「ハートランド」も、完全に成功したわけではなかった。ただ、そうした失敗の経験から、前田は将来の成功の芽を見出していく。

のちに前田は、次のように記している。

「『自分の全知全能をかけて考えた商品や戦略、戦術』なら、たとえ期待通りの成果が出なくても、必ず次に繋がります。そういった失敗を大いに許し奨励する組織風土にしたいと痛切に思っています」(「思考の技術について」)

その後、前田は、大ヒットする「一番搾り」を90年に開発するが、発売直後に左遷されてしまう。雌伏を経て97年に最年少部長で本社へ復帰。発泡酒「淡麗」、健康系ビール類で初めて売れた「淡麗グリーンラベル」、缶チューハイ「氷結」などのヒット作を世に出していく。

「ヒットするには、親しみやすさが大切。パッケージデザインは、あえてダサく作れ」と、部下に支持していた前田。そんな彼の原点は「ハートランド」にあった。

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